2024年 | プレスリリース?研究成果
記憶の運命はグリア細胞が握る マウスのグリア細胞光操作で判明
【本学研究者情報】
〇生命科学研究科 教授 松井広
研究室ウェブサイト
【発表のポイント】
- 怖い体験の記憶が残るか残らないかの運命は、その体験の刹那(せつな)のグリア細胞(注1)にゆだねられていることを明らかにしました。
- マウスの脳のグリア細胞の一種、アストロサイト(注2)に、光に反応するタンパク質(注3)を発現させ、この細胞の機能を光で操作する実験を行いました。
- 床に電気ショックを流して、マウスが怖い体験(注4)をしたその直後、脳内の扁桃体(注5)に光を照射して、アストロサイトのpH(注6)を操作しました。
- アストロサイトを酸性化すると恐怖記憶は翌日には完全に消え、アルカリ化すると3週間にわたる記憶の自然な忘却が阻害されることがわかりました。
【概要】
同じような経験をしても、鮮明な記憶として残る場合と、跡形もなく忘れ去る場合があります。東北大学大学院生命科学研究科の山尾啓熙(ひろき)大学院生(日本学術振興会特別研究員)と松井広(こう)教授(大学院医学系研究科兼任)は、脳内アストロサイトに光に反応するタンパク質を遺伝子発現するマウスを用いて、記憶の形成過程を調べました。マウスを実験箱に入れて、床に電気ショックを流すと、マウスは痛みを感じます。翌日、同じ実験箱にマウスを入れると、通常は、前日の体験を覚えているので、マウスはすくみ反応(注7)を示します。そこで、実験初日、床に電気ショックを流した直後に光ファイバーを通して扁桃体を照射し、アストロサイトを酸性化しました。すると、その体験の数分後のマウスはすくみ反応を示しましたが、翌日のテストでは恐怖記憶をすっかり忘れていて、実験箱内を気楽に探索しました。この結果、怖い記憶が長期的に残るか残らないかは、恐怖体験の瞬間のアストロサイトの状態に依存することがわかりました。アストロサイトの細胞機能に介入することで、トラウマ(注8)の形成を回避できる可能性が示唆されました。
本成果は2024年11月4日付で脳科学の学術誌Gliaに掲載されました。
図1. 脳内グリア細胞の状態を光操作すると、恐怖記憶の長期的な定着が阻害されることが明らかになりました。脳内グリア細胞のうち、アストロサイトという種類の細胞に、光感受性イオンチャネルchannelrhodopsin-2(ChR2)を遺伝子発現するマウスを用いて実験を行いました。マウスは電気ショックを受けると恐怖記憶が形成され、ショックを受けたのと同じような環境に来ると、恐怖の記憶が呼び起されて、身をすくませることが知られています。ところが、電気ショック直後に扁桃体アストロサイトのChR2を光刺激すると、マウスの長期記憶の形成は阻害されました。何らかの経験をしている時のアストロサイトの活動次第で、記憶が長期的に残るかどうかの運命が決定されていると言えます。アストロサイトの状態を人為的に操作することで、トラウマとなる可能性がある嫌な経験の記憶が長期的に定着することを防ぐことができるようになるのかもしれません。
【用語解説】
注1. グリア細胞: 脳実質を構成する神経細胞以外の細胞は、総称して、グリア細胞と呼ばれていて、脳内には神経細胞に匹敵する数のグリア細胞があります。グリア細胞は、大きく分けて、アストロサイト、ミクログリア、オリゴデンドロサイトに分類されています。脳内での情報処理は、膨大な数の神経細胞同士が織り成すネットワークによって実行されていると考えられています。一方、グリア細胞は、神経組織を構造的に支え、神経細胞に栄養因子を受け渡すためだけの細胞群であると長らく考えられてきました。しかし、近年、グリア細胞からの作用を通して、神経回路の動作は種々な影響を受けていることが報告されています。
注2.アストロサイト: アストロサイトは、グリア細胞の中で一番多く存在し、脳内の血管と神経細胞間のシナプスの双方に突起を伸ばすことから、特に神経情報処理との関連が深いことが推測されています。このアストロサイトは、周囲の神経細胞の活動に反応し、何らかの伝達物質を放出したり、イオン濃度調節機能を発揮したりすることで、神経回路の動作に影響を与えます。しかし、アストロサイトは、単に、神経活動に対して受動的に反応するだけではなく、むしろ、アストロサイトからの能動的な働きかけが原因となって、神経細胞の働きが制御されている可能性が指摘されています。
注3.光に反応するタンパク質: 光に応じて細胞の状態や機能を変化させるタンパク質を、特定の細胞に遺伝子発現させることにより、光照射で細胞の活動を制御する技術のことを光操作法と呼びます。また、この技術は、光遺伝学またはオプトジェネティクスとも呼ばれます。開発当初より、この技術は、もっぱら、特定の種類の神経細胞を人為的に機能操作する手段とされてきました。一方、当研究室では、グリア細胞にオプトジェネティクス技術を適用する研究を行ってきました。しかし、オプトジェネティクスを利用すると、生来のグリア細胞では起こりえない変化が引き起こされる可能性があることで批判されることがあります。しかし、当研究室では、グリア細胞の機能を瞬時に変化させる手段としてこの技術を活用しており、脳という複雑系に生まれる摂動の効果を観察することで、生来の脳内機構を解き明かすことに挑戦しています。
注4.恐怖体験: 電気ショックを受けるとマウスには強い恐怖心が生まれると考えられ、電気ショックを受けた環境(実験箱の形状や周囲の様子等)をマウスは良く記憶します。再び、同じ環境に連れてこられると、また電気ショックが来るのではないかと怯えて、すくみ反応を示します。すくみ反応の程度を観察することで、記憶の定着の程度を定量的に計測することができるため、恐怖条件付け実験は、マウスの記憶を測定する手段として良く使われています。
注5.扁桃体: ヒトを含む高等脊椎動物の側頭葉内側の奥に存在する、アーモンド(扁桃)形の神経細胞の集まりのことであり、大脳辺縁系の一部であると考えられています。扁桃体は、情動反応の処理と記憶において主要な役割を果たすことが示されています。
注6. 細胞質のpH: 溶液内に含まれる水素イオン(H+)の濃度の指標をpH(水素イオン指数)と言います。pHの数値が低いと、水素イオン濃度が高いことを指し、この状態を酸性と呼びます。一方、pHの数値が高いことをアルカリと呼びます。グリア細胞の細胞質のpHは、様々な細胞機能に影響を与えることを、これまで、当研究室では示してきました。すべてのグリア細胞で同じ反応があるとは限らないのですが、小脳のグリア細胞の酸性化が引き金となって、グリア細胞からグルタミン酸等の伝達物質が放出されることは示されています(Beppu et al., J Physiol 2021)。また、海馬のグリア細胞のアルカリ化が起きると、グリア細胞間のギャップ結合が閉塞し、細胞外のK+イオン除去の効率が下がることが示されました(Onodera et al., J Neurosci 2021)。
注7.すくみ反応: マウスは恐怖を感じると、その場にうずくまって、ほとんど動かなくなる反応を示すことが知られています。このような行動のことをすくみ反応、もしくは、英語でフリージング(凍る)行動と呼ばれています。
注8.トラウマ: トラウマ(trauma)とは、心の傷を意味し、自然災害や戦争、犯罪、事故などの体験の記憶が心に刻まれることを指します。一般的に、個人が一般の生活では経験しないような心理的に強い負荷となる出来事を指します。そのようなトラウマ体験から自然に回復する人もいますが、トラウマの記憶から精神障害となることがあり、そのことをPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼びます。
【論文情報】
タイトル:Astrocytic determinant of the fate of long-term memory
著者: Hiroki Yamao, Ko Matsui*
筆頭著者:東北大学 大学院生命科学研究科 超回路脳機能分野
博士課程大学院生 日本学術振興会特別研究員 山尾 啓熙
*責任著者:東北大学 大学院生命科学研究科 超回路脳機能分野
教授 松井 広
掲載誌:Glia
DOI:https://doi.org/10.1002/glia.24636
問い合わせ先
(研究に関すること)
東北大学大学院生命科学研究科
教授 松井 広(まつい こう)
TEL: 022-217-6209
Email: matsui*tohoku.ac.jp(*を@に置き換えてください)
(報道に関すること)
東北大学大学院生命科学研究科広報室
高橋 さやか(たかはし さやか)
TEL: 022-217-6193
Email: lifsci-pr*grp.tohoku.ac.jp(*を@に置き換えてください)
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